化学物質過敏症(MCS)の歴史と研究動向をまとめた Multiple Chemical Sensitivity 2022 という総説論文の翻訳です。
2022年 化学物質過敏症研究の最前線① の続きです。
翻訳文責:
一社)化学物質過敏症・対策情報センター
代表理事 上岡みやえ
目次
3.化学物質過敏症(MCS)と嗅覚過敏
化学物質過敏症(MCS)に苦しむ人は、嗅覚過敏になりやすいことが報告されています。他の人には感知できないレベルのわずかなニオイを感じてしまう人もいます。
ただし、精神物理学的手法を採用した研究では、嗅覚のしきい値については識別できませんでした。
たとえば、Doty ら [73、74 ] は、2つの試薬フェニルエチルアルコールとエチルメチルケトンの匂いのしきい値においては、化学物質過敏症(MCS)18名と、対照群18名の間では、差がなかったと報告しています。
しかし、化学物質過敏症(MCS)では、鼻の気流抵抗、呼吸数、心拍数が増加する傾向があることが示されています。
他の調査においても、匂いのしきい値や、他の嗅覚測定値(例えば、匂いの強さの評価、匂いの識別)では、化学物質過敏症(MCS)と対照群との間に差がなかったことが報告されています[ 8、75、76、77、78、79]。
化学物質過敏症(MCS)の嗅覚過敏は、感じすぎるというより、反応しすぎるという概念、すなわち「過反応性」によって、より良く説明される可能性があります。
化学物質過敏症(MCS)患者と対照群との間における、嗅覚のしきい値の違いを測定するには、より広い範囲の嗅覚刺激が必要となることも考えられます。
とはいえ、匂い物質が、一部の人に、上気道炎症・下気道炎症をもたらすことも、よく知られている事実です。
このことは、嗅覚機能それ自体は、嗅覚過敏の直接的原因でもなく、症状を媒介しているわけでもないことの説明になりえます。
匂いを感じるときに症状が出ることは、この説明の正しさを強化します。
実際に、ほとんどすべての匂い物質は、ばく露濃度とばく露期間に比例して、三叉神経侵害受容器を介した鼻腔内感覚を引き起こす可能性があります[73]。
さらに、迷走神経侵害受容器は、喉と上気道に到達するいくつかの揮発性物質を検出します[80]。
空気中の化学物質は、こうした侵害受容器に直接的に到達します。なぜなら、粘膜の頂端に位置する「自由神経終末」は、皮膚の侵害受容器とは異なり、扁平上皮に覆われていないからです[81]。
三叉神経反応性は、MCS患者における鼻の気流抵抗、呼吸速度、および心拍数の増加に関するDoty らの所見[73]の説明として有効です。これらのタイプの反射は三叉神経系に依存しているからです。
揮発性化学物質は、呼吸に影響を与えるだけでなく、喉頭症状を引き起こす可能性があり、最悪の場合、声帯機能障害を引き起こす可能性があります[82]。
こうしたことは、化学的に誘発された上気道症状・下気道症状を有する患者が、咳など迷走神経の化学的活性化によって誘発される可能性のある症状について、しきい値が低いことの証拠といえるでしょう。
カプサイシン吸入試験では、化学物質過敏症(MCS)は、対照群よりも、過敏性の咳反応を示します。カプサイシン吸入試験と、神経成長因子(NGF)である鼻洗浄液濃度との間に相関性がみられることは、特筆すべき点です。
神経成長因子(NGF)は、アレルギー、喘息、アレルギー性鼻炎患者の血清、気管支組織、および気管支肺胞液に見られる、重要なニューロトロフィンです[83]。
化学物質過敏症(MCS)の症状が、喘息、片頭痛、蕁麻疹など、他の過敏症候群の症状と重複していることには、注意が必要です[84]。
4. 化学物質過敏症(MCS)患者像
化学物質過敏症(MCS)の平均的な患者像として、十分な教育を受けていること、社会的地位・経済的地位が高いこと、中年であることなどが挙げられます[16、18、85、86、87]。
若い人と比較すると、65歳以上の人は、自分が化学物質に過敏であるとは認識していない傾向があります[88]。
シックビルディング症候群[89]と同様に、女性の有病率が、男性よりも明らかに高いこと[16,18,21,90,91]、女性の割合が60%から88%であることが報告されています[18,57,92,93,94]。ただし、例外はあります([95]など)。
化学物質過敏症(MCS)について、女性の有病率が高い理由は、人口統計学的には説明できていません。
サンプリングのやり方に左右された可能性はあります。たとえば、ボランティアに志願する人は、志願しない人よりも、教育レベルが高い、職業的地位が高い、同級生の中では早く生まれている、若い年齢層に属する、承認欲求が高い、権威主義ではない、などの傾向があることがわかっています[96]。
女性が、実験ボランティアに志願する確率が高いことを、内分泌状態が引き起こす現象としてとらえる研究者もいます[97]。
その他、化学物質過敏症(MCS)のコホート研究において、女性の患者数が多くなる現象について、互いに排他的ではない説明となりうるのは、
・女性は男性よりも、外部の手がかりに着目して症状を定義しようとする
・女性は男性よりも長い時間を換気の悪い家で過ごしている
・化学物質過敏症(MCS)に関連する心理的および身体的障害を起こしやすい
[16,91,98,99,100]などです。
匂い物質の中には、繰り返しばく露すると、その匂い物質への感受性が高くなるものがあります[101,102,103]。男性よりも女性の方が、匂い物質にばく露しやすい傾向があります[104]。
5. 化学物質過敏症(MCS)有病率
化学物質過敏症(MCS)の有病率の評価方法は確立されていません。有病率は、研究によって大きく異なります。
正確な評価方法が確立されにくい理由として、以下が考えられます。
・症状にとらえどころがないため、病因、発症機序、診断基準などへの統一見解を作りにくい
・線維筋痛症(FM)、慢性疲労症候群(CFS)、シックビルディング症候群(SBS)、特発性頭蓋内高血圧症(IIH)など、同じような症状をみせる他の疾患との差異が特定されていない
・データを収集する文脈が異なる
有病率は、
(a)専門医によって診断された患者、症状について質問された患者、異なる見立てで診断された患者
(b)症状を自己申告しただけで専門医には診てもらっていない
などの違いによって変化します。
たとえば、確定診断を受けた化学物質過敏症(MCS)だけを調査するなど、調査のあり方によって、有病率が変動する可能性があります。
表1に示されているように、有病率は通常、確定診断を受けた患者を「有病者」に限定すると低くなります。研究によって、1%未満~33%の範囲で変動する可能性があります。
(表1の転載は省略)
Herrらが指摘したように [105]、環境のせいで病気になったという患者の多くは、呼吸器疾患、皮膚疾患、胃腸疾患などと診断されます。化学物質過敏症(MCS)と診断されるのは、環境のせいで病気になったという患者の15%以下です。
驚くべきことに、環境の悪さを訴える患者の40%から75%に、身体障害がみられます。
6. 政府機関による疾病認定
多くの国々と医療界は、化学物質過敏症(MCS)と、これに類する疾病を、「衰弱させる病気」として認識しています。
ドイツは1998年、世界に先駆けて化学物質過敏症(MCS)を疾病認定しました。デンマーク、オーストリア、ルクセンブルグ、スペイン、フィンランドも、化学物質過敏症(MCS)を疾病認定しました。
ドイツとオーストリアでは、化学物質過敏症(MCS)は、ICD-10の「T78.4」(不特定のアレルギー、亜酸化窒素システム-過敏症、NOS-特異性)に分類されています。
ICD-10
異なる国や地域から、異なる時点で集計された死亡や疾病のデータの体系的な記録、分析、解釈及び比較を行うために、世界保健機関(WHO)が作成した分類コード体系。(厚生労働省)
スウェーデンでは、電磁過敏症(EMH)が認められています。
これらの国々では、医療保険請求に必要な「請求コード」が利用されています。
しかしながら、世界保健機関(WHO)は、化学物質過敏症(MCS)や類似疾病に、ICD-10 の中の、汎用性の高い分類コード「J68.A 化学物質の吸入による不特定の呼吸状態」あるいは「T78 不特定のアレルギー」を割り当てていません。
これらの分類コードには、化学物質過敏症(MCS)の具体的症状は含まれないものの、化学物質過敏症(MCS)の症状の一部に適用される場合があります。
米国では、化学物質過敏症(MCS)は、複数の医療機関によって部分的に承認されています。
たとえば、米国疾病予防管理センター(CDC)は、慢性疲労症候群(CFS)や 筋痛性脳脊髄炎(ME)の症状を呈している患者を「化学的不耐性」として承認しました。
環境保護庁(EPA)、住宅都市開発省(HUD)、社会保障局(SAA)などの連邦政府機関、および米国障害者法(ADA)などの法律は、少なくとも化学物質過敏症(MCS)への注意[34、120 ]を喚起しています。
長年シックビルディング症候群(SBS)を認めてきた日本[ 72 ]は、ICD-10 の T65.9(煙、ガス、化学蒸気の吸入による不特定の呼吸状態[ 72 ])として、化学物質過敏症(MCS)を、疾病認定しています。
カナダ労働安全衛生センター、および一部のカナダの地方機関は、化学物質過敏症(MCS)や シックビルディング症候群(SBS)のような症状を呈する症候群を、極めて深刻な、健康および安全の脅威として認識しています[ 18]。
イタリアでは、化学物質過敏症(MCS)は保健省には認められていませんが、一部の地域当局は、希少疾患として認定しています。数年前、イタリア議会に「化学物質過敏症(MCS)患者のための規定」と題する法案が提出されましたが、成立はしませんでした[ 121 ]。